新庄剛志が北海道日本ハムファイターズの監督に就任し、早くも野球界への関心・注目が集まっている。
新庄剛志と言えばこれまでの名言(迷言)・珍言・伝説の数々から、多くの人は『感覚的に生きてる人』『宇宙人』というイメージを持っているかもしれないが、実はその裏には戦略的思考が隠されている。
今回の話を読み終わる頃には、きっとあなたも新庄剛志のイメージがガラッと変わることだろう。
ということで、早速いってみよう!
新庄剛志の経歴
北海道日本ハムファイターズの2022年監督に就任した新庄剛志ビッグボス。
現役時代はドラフト5位で阪神に入団し、90年代の約10年間を阪神の顔として活躍してきた。
2001年、イチローと共に野手として初めてのメジャー挑戦。当初、まったく期待されていなかったが、ニューヨーク・メッツ、サンフランシスコ・ジャイアンツで活躍して周囲を驚かせた。
2004年からは北海道へと拠点を移した日本ハムファイターズにて日本のプロ野球界に復帰。独自のアイデアでパ・リーグを大いに盛り上げ、低迷していたファイターズを3年目に日本一へと導く立役者となった。
引退後はバリ島へ移住し、悠々自適な生活を送るも、2020年にはプロ野球界への復帰を目指して突如トライアウトに参戦。48歳(当時)で前代未聞の挑戦。結果を残したが現役選手としてオファーがかかることはなかった。
しかしその翌年、2022年からの日ハム球団から監督就任のオファーを受け、その活躍が期待されている
新庄剛志の名言・伝説の裏に隠された戦略的思考
そんな新庄剛志だが、これまで沢山のスポットライトを浴び、そこで様々な名言(迷言)、伝説を残してきた。
従来のプロ野球選手としては規格外のものが多く、そのイメージから『感覚的』『破天荒』『宇宙人』という印象を持っている人もきっと沢山いると思う。
しかし、監督として日本のプロ野球界に戻ってきた今、それは“能ある鷹が爪を隠すために道化を演じていただけ”ということがわかってきた。
一見、何も考えずに見える新庄剛志の発言・行動の裏には、驚くべき戦略的思考が隠されていたのだ。つまり、誤解されてることが多い…!
もちろん、賢さだけではなく、そこには人知れず重ねてきた陰の努力と、ヒーローを演じるための勇気も隠されている。
では、これから新庄剛志の名言・伝説を紹介しながら、その裏に隠された戦略的な思考や意図について全力で解説していこう!
野球なんかマジバイト
「野球なんかマジバイト」という迷言は『しくじり先生』に出演した時のものだ。
その背景には年俸2200万円という破格の安さでニューヨーク・メッツに入団したものの、思わぬ活躍でCMなどのオファーが殺到。あるCM撮影では、ただポーズを取っただけで8000万円の収入が入ってきたそうだ。ちなみに、メジャーにいた頃は毎年7~8億円近く稼いでいたとのこと。正にアメリカンドリーム…!
しかし、この「野球なんかマジバイト」という番組用のリップサービスのために、新庄剛志を「やはり天才だな」と思った視聴者もいれば、「野球を舐めるな」と感じた視聴者も多かったに違いない。
しかし、それは大きな誤解である。
というのも、新庄剛志は現役時代に誰よりも野球に打ち込み、世間に対して野球への関心を高めようと尽力してきたところがあるからだ。
阪神タイガースに在籍していた頃のエピソードにこんな話がある。
新庄はチームの皆と練習した後、同じように室内練習場を出る。そしてしばらくした後、またひとり室内練習場に戻り、係員の人にカギを貸してもらってまた練習を始める。一人きりなので135kgのベンチプレスを上げる時に何かあっても誰にも助けてもらえない。そんな恐怖心と闘いながら、スターになることを夢見ていたそうだ。
さらに新庄は、誰よりも早く球場に来て、ひとり黙々とトレーニングをしていた。皆が顔を出す頃にはすべてを終わらせているくらいのプロ意識を持って現役時代を過ごしていたという。
新庄はこう語る。
「僕はたしかに運動神経がよかったが、それだけなら他にもっと才能がある人間が沢山いる。自分の才能だけでプロとしてやっていけるとは思ってなかったから、誰よりも努力しなければいけないと思ったんだ」
新庄剛志を天才だと言う人は多いが、本当の彼は誰よりも野球に打ち込んできた過去があるのだ。
下半身は鍛えたくない
新庄剛志ビッグボスが沖縄の秋季キャンプにおいて、清宮幸太郎に対し「ちょっとデブじゃねぇ? ヤセない? ヤセたほうがモテるよ」と発言したことが話題になった。
高校時代の成功体験から、体重を増やしたほうがパワーが増すと考えている清宮のバッティングにキレがないと見抜いたからだ。
そんな新庄剛志は現役時代、「ジーンズが似合わなくなるのが嫌だから、下半身は鍛えたくない」という言葉を残している。
これは一体どういうことなのだろうか?
実は新庄、子供のときに観ていた『キャプテン』というアニメが大好きすぎて、自分の努力を人に見せたくないという美学を持っている。その美学を若手のころからずっと貫いているのだ。
この発言について、阪神時代に『亀新フィーバー』を巻き起こした亀山つとむが次のようなコメントしていた。
「派手な行動に隠れているけど、計算してたり、見えないところで準備してたり、行きあたりばったりじゃない。『ジーンズが似合わないからウエイトトレーニングはしない』と言ってるけど、実は裏でしっかりやっていたよ」
実際、引退後の新庄は「現役時代、めちゃくちゃ努力していた」「でも、努力を見せない方が格好いいと思ってたからそれを隠していた」と公言しているので、我々はまんまと彼の戦略にハマっていたわけだ。
さらに新庄は「プロ野球選手は子供に憧れられる存在であるべきだ」というポリシーを持っている。
そのため、ユニフォームを脱いだ後も決してセルフプロデュースを怠らなかった。
そういった背景を含めて、わざとこのような発言をしたというわけだが、新庄の凄いところは公私を楽しんでやっていたところ。それが今、監督業として再び花開こうとしている。
話が長すぎるので、短くしていただけませんか
新庄剛志の伝説として、故・野村監督とのやり取りがよく挙げられる。
その中でも特にインパクトが強いのが、毎日2時間のミーティングを課そうとした野村監督に対し「話が長すぎるので、45分にしていただけませんか」と新庄が言い放ったという逸話だ。
野村監督は『ID野球』という戦略プレーでヤクルトを4度のリーグ優勝(そのうち3度は日本一)に導いた名将中の名将。阪神はどちらかというと泥臭い野球をするチーム。そんな名将野村監督が、突然、阪神タイガースにやってきた。
要するに、超成功している大企業のやり手社長が、伸び悩んでいる中小企業の社長になるようなもの。当時虎党だった僕は、強敵ヤクルトの野村監督が阪神に来るというニュースを聞いて嬉しい反面、「山田にID野球ができるのか…?」と不安に思ったものだ。 ※山田(勝彦)…当時の阪神の正捕手
そんな野村監督は、ID野球を浸透させるため、就任直後のキャンプから毎晩2時間のミーティングをやると宣言。朝から晩まで野球漬けの中、毎日2時間のミーティングを不満に思った新庄がこの台詞を吐いたとされているが、実はそこに次のような意図があった。
野村監督のミーティングを受けながら、「周りの選手が疲れのために話に集中できていない。せっかくのいい話なのに長すぎては頭に残らない。これでは意味がない」と感じた新庄は、ミーティングが終わった後に直談判。そこで野村監督へのリスペクトを伝えたうえで時間短縮を訴えたのだ。
わからなくなるので、また今度にしてください
当時、感覚的にプレーをしていた(と思われていた)新庄剛志と、論理的な指導をする野村監督との相性は最悪だと見られていた。
しかし、後に新庄は自身ことを「僕は野村監督以上に考えて行動するタイプの人間だ」と告白している。
それを表しているのが「いっぺんに言われるとわからなくなるので、また今度にしてください」という珍発言だ。
普通、萎縮するような場面でこのようなことを言ってのけ『宇宙人』と評される新庄。当時、マスコミも当たり前のように「新庄が頭が悪い」と報じた。当時は野村監督も「彼の言動は私の理解を超えている」と話していたくらいだ。
しかし、そこには新庄なりの戦略があった。
初めて新庄が野村監督からアドバイスを受けた時、いろいろな話に及んで、それが30分くらい続いた。
その時、新庄は「ここで一気に色んな話を聞いてしまったら、後で監督と話す機会が減ってしまう。それよりも少しずつ話を聞いて接触頻度を増やしたほうが、自分にとってはレベルアップできるはずだ」と考え、上記の発言をするに至ったとのこと。
たとえウザいと思われても、その時その時で質問した方が野村監督のエッセンスを吸収できる。新庄はそう考えたのだ。
当時、天然と思われていた新庄だったが、このエピソードからは“自分を成長させるためのストイックな姿勢”が感じられ、これまでのイメージとは違う印象を受けるのではないだろうか。
伝説① 敬遠球を強引に打ち返す
https://youtu.be/HJhnEZmDU1g
球界に残る言わずと知れた伝説のシーン(笑)
正に「アンビリーバボー」なこの行動も、新庄なりに周到な準備の元で行われた結果、見事なサヨナラヒットとして伝説を作っている。
というのも、この場面が来るその2日前、広島戦で同じような敬遠を受けていた新庄。その時は敬遠を受け入れるしかなかったのだが、頭の中では「これ、その気になれば打てるのでは?」と思っていたそうだ。
次の日の練習、実際にキャッチャーに立って補給するようお願いし、ピッチャーにはコースを外してもらうというトレーニングを行った。
もちろん、新庄にはまた敬遠が来るという確信があった。なぜなら、前月は打撃好調でMVPを獲得していたため、相手チームからはかなり警戒されていた時期だったからだ。当然、新庄本人も勢いに乗っていたことも確かだ。
そして、首位を争う巨人と、ホーム甲子園での負けられない一戦。その時はすぐに訪れた。再び新庄は敬遠を受けることになった。したたかにバッターボックスの一番遠くに立ち、甘い球を待った新庄は敬遠球をレフト前にはね返したのだ。
とっさの思いつきで敬遠球を打ったと見る人は多いが、事前に野村監督やコーチにも了承済み。しっかり準備した上での行動だからこそ、あの場面で伝説を刻み込むことができたというわけだ。
伝説② 実は平均打率2割5分だった
現役時代の新庄剛志と言えば、4番を任されるスラッガーというイメージが強い。
実際、バッターとして活躍するシーンが思い浮かべる人も多いだろうが、それは新庄剛志という男がチャンスの時にこそ本領を発揮する稀有な存在だったからだ。
日本でのバッターとしての通算成績は以下のとおり。
ちなみに少年野球の時も、西日本短大付属高校の時も、大体2割5分くらいだったそうで、メジャーでもそこは変わっていない。
しかしそれは当然で、元々は『守備』『強肩』『走塁』が評価されていた選手だったからだ。
ただ、新庄剛志は目立つことが大好きで、どうやったら一番目立つかということを考え抜いた結果、『ここぞという場面で活躍する』ということだけを徹底するようになる。
その代わり、通常の打席ではそれほど気合いを入れなかったという。なぜなら、ここぞという場面で打つ時は集中力が必要だからで、それを普段から出していたらいざという時に打てなくなるからだ。
こんなエピソードがある。阪神に在籍していた最後の年(00年)。新庄はやる気が出ずにスランプに陥っていた。
野村監督に「どうしたら調子が戻るんだ?」と聞かれ、「もちろん四番ですよ」と答えたら、本当に四番バッターに復帰させてくれたのだそう。
野村監督のその心遣いに新庄は心を打ち、その期待に答えようと集中力が戻ったという。そしてスランプから脱出し、キャリア10年目にして最高の成績を収めることとなった。
元々は守備に命を懸けていたので、バッティングに関しては「チャンスで打てばいい」くらいの感覚でやっていたとのこと。
言うはカンタンだが、そこで結果を出し続けてきたところはやはりアメージング。そうやって期待の場面で活躍してきたからこそバッター新庄剛志という印象が強いわけだが、このようにバランスを取って試合臨んでいたところは非常に戦略的と言えよう。
伝説③ ピッチャー・新庄
阪神で過ごした90年代の後半期、常にどこかの故障を抱えていた新庄剛志は強肩で捕殺の名手だったこともあり、99年に野村監督からピッチャーを兼任することを命じられる。
そして、実際に試合登板するも、すぐに膝が痛いことを理由にピッチャーを辞めてしまうも、「実はそれは仮病だった」と後に話している。
元々新庄は、少年野球時代にピッチャーをしていて無双していた経験がある。
しかし、あまりにも新庄の球が当たらないので、仲間内から「野球がつまらない」という不満が漏れたことをきっかけに、外野手へと転向を決意。そこから野手としてファインプレーをしたり、外野から守備位置をコントロールしたりすることに喜びを感じるようになっていった。
なので、ピッチャーがカンタンだから乗り気ではなかったということを理由としつつも、元・阪神の中西清起との対談では「今の練習にピッチャーの練習を増やすのはキャパオーバーだったから」とも語っている。
それにピッチャーは好不調の波に左右されやすい。新庄は自分の性格を考えた上で、ピッチャーより守備のスペシャリストとしての人生を送りたかったというのがこの話の真相のようである。
野球ではよく、キャッチャーが試合をコントロールすると言われる。キャッチャーは全体の動きを俯瞰して見ているからだ。
しかし新庄は、「それはセンターも負けていない」と言う。
そういう思考で試合に臨み続けた結果、新庄は現役時代にゴールデングラブ賞を10回受賞している。どれだけセンターへの熱意を持っていたかが伝わるのではないだろうか。
センスがないから野球を辞める
新庄剛志の名言と言えば「センスがないから野球を辞める」と突然引退表明をした時のことを思い浮かべる人も多いのではないだろうか。
当時、新庄は見た目のイメージから「勝手な人間」「わがまま」と、ネガティブに捉えられていたところもあった。しかし、実際の新庄は正義感が強く、気遣いができる男である。ただ、相手から礼儀や敬意を感じられない時に自分を曲げないという部分があることは新庄本人も認めるところだ。
95年のシーズンオフ、怪我が深刻だった新庄に対し、首脳陣は皆と同じ練習をするよう求めていた。ある日のこと、新庄は怪我でランニングできない状態だったから、室内トレーニングを行うと予定していた。しかし、それが監督に伝わってなかったため、新庄はグラウンドで正座させられることに。
「走れないほど足首を痛めている選手に正座させる意味がどこにあるのか」
さらに、ヒジの痛みを訴える状態にも関わらず、黒潮リーグ(シーズンオフ中に行われる大会)への強制参加を求められ、こう思ったという。
「それは、僕のヒジが壊れてまでやるべきことなのか?」
この根性論というか合理性のなさは正に当時の阪神そのものだが、見た目に反して論理的に野球のことを考えていた新庄にとっては納得できるものではなく、最終的に「センスがないから野球を辞める」という宣言へと繋がっていった。
要するに『監督との対立』が原因なのに、なぜ『センスがない』ことを理由にしたのか。ここが新庄の人間性が垣間見えるところだ。
実は新庄は新庄なりに阪神という球団には恩があるから、マスコミに向けて「監督と対立している」と正直に話して球団の印象を落としたくなかった。それに、年齢的に『体力の限界』や『成績不振』を理由にするのも不自然だったから、「センスがない」ということにしたとのこと。
一見、自暴自棄に見える言葉だが、色々考えたうえでのことだ。
そういう恩義のある行動を続けた結果、こうして名言として残っているのだろうし、現在の「新庄は決して人の陰口を言わない」という人物評に繋がっている。
伝説④ 速攻で引退を撤回
会見で引退を発表した後、新庄の元に突然の連絡が入った。
「引退を聞いたことで、父の病気が悪化した」と母から電話があったのだ。
父危篤の知らせに大きなショックを受けた新庄は「自分が間違っていた」と思い直し、もう一度プレーしたいと球団に頭を下げ、引退を撤回する。
父の病気のおかげでキャリアが終わることを回避できた新庄だが、後日談として、それは母の方便だった知って驚いたそうだ。
その後、新庄は仮病を使って野村監督に『ピッチャー新庄』の道を諦めさせることに成功するが、母も同じような戦略家だったというわけだ。
伝説⑤ メジャー挑戦で世間から叩かれる
新庄剛志がメジャーに挑戦すると宣言した時、地元ファンからは思い切りバッシングされていたことは記憶に新しい。
新庄ももちろんそうだが、イチローや大谷翔平のようにバッターとして日本人が活躍するなんてまだ夢のように思われていたからだ。
余談だが、外国人投手というのは手が大きい分、投げた球の回転数が日本人投手に比べて少ない。つまり、回転数が多いほど打った時の飛距離が伸びるので、日本人バッターからするとメジャーの球は非常に打ちにくいと言われている。
そんな中、日本人で初めて野手としてメジャーに挑戦したのが、イチローと新庄剛志だ。
大阪のテレビニュースで街の声などを聞いていると、「無理無理!メジャーで通用するかいな!」「身の程を知ったらええんちゃうかな」「日本の恥をさらしにいくようなもんや」みたいな辛辣なものが多かった。何しろ野手がメジャーで活躍した前例がないので仕方がない。
しかし新庄は世間の声とは裏腹に、その時こんな風に考えていた。
「これだけボロカスに言われてる中で活躍したら皆ビックリするだろうな」
バッシングを受けて凹むどころか、逆にそれをテンションをあげるための材料にしていたのだ。
伝説⑥ イチロー6億、新庄2200万
2001年にメジャー挑戦した新庄剛志とイチローだが、契約年俸にはかなりの開きがある。
その年、イチローがシアトル・マリナーズと結んだ契約年俸は560万ドル(約6億9000万円)だったが、新庄がニューヨーク・メッツと結んだ契約年俸は20万ドル(約2200万円)だ。
さらに新庄は日本の3球団から5年で12億円のオファーがきていたので、さすがにどうしようかと迷ったそうだが、メジャー行きを決めた理由について次のようなことを明かしている。
「人生の大きな岐路に立った時は、地位やお金で決断するのではなく、自分が全力を出せる場所でチャレンジしたほうがいい」
逆境こそが自分を強くすると確信を持っていた新庄は、今手にしているものを捨て、よりストイックになれる道を選んだ。そして新庄は誰もが予想しなかった活躍をしたのだ。
ここぞというチャンスで活躍し、メッツの4番を任されるまでに。
打席順で年俸を見ると、一番9億、二番12億、三番17億、四番2200万、五番15億、六番10億というおかしなことになっていた。
とはいえ、1/10の年俸で活躍できるかどうかわからない道を選ぶなんて、とても普通の人間にはできないことだが、人生で一番大切なことを有言実行してみせた新庄の功績はかなり大きいと言えるだろう。
伝説⑦ バリー・ボンズの頭をはたく
バリー・ボンズと言えば、メジャーでも屈指の名スラッガーとして有名だ。
あまりにリスペクトされすぎていて、チームメイトたちも気を遣って接してくるくらいの存在だったが、それが故に気難しい人間と思われていた。要するに『近寄りがたい大御所』だったのだ。
そんなバリー・ボンズの頭をはたくことができる程、新庄は仲が良かったそうだが、それは決して偶然の産物ではない。ちゃんと意識して信頼関係を築く努力をしていたのだ。
ジャイアンツのセンターとしてプレーすることになった新庄は、シーズン前、レフトを守っていたバリー・ボンズにこう約束した。
「ユーの左に飛んだ打球は全部オレがキャッチする。だから右方向の打球だけを追えばいい。あとは打つことに集中しろ」
実際、バリーの4m横くらいの球も新庄が捕りにいくことになったようだが(笑)、シーズン終わりには「タイトルを取れたのは新庄のおかげだ」とバリーがマスコミに答えてくれた。
ちなみに新庄がバリーの頭をはたいたのは、ルーキーから寝起きにサインを求められたことでバリーが暴れた時、「That’s No Good !」とそれを制したからなのだそう。正義感の強いところも一貫しているのが新庄剛志という男なのだ。
伝説⑧ 不人気球団を選ぶ
メジャーで3年間を過ごした後、日本球界に復帰を決めた新庄は、巨人・ロッテ・日ハムの3球団からオファーがあって迷っていた。
巨人には大好きな原監督がいる。ロッテにはメッツでお世話になったボビー・バレンタイン監督がいる。日ハムは…、特に何もない。
そんな中で新庄が最終的に選んだのは『北海道日本ハムファイターズ』だった。
ここまで熱心に読んでくれている読者ならもうわかると思うが、とにかく新庄はマイナスをプラスに変えるというギャップを楽しむ男だ。
万年Bクラス。ホームで客席も埋まらない。今年から北海道へ移転。
「札幌ドームを満員にして、このチームを日本一にしたら面白いだろうな」
人生の岐路に立たされた時、お金や地位で選ばずに思い切り自分を出せる場所で全力を尽くせば、後で何もかも付いてくる。そう考えるのが新上流なのだ。
伝説⑨ 新庄劇場の裏にあった戦略
心機一転、登録名を『SHINJO』に変えた新庄剛志は、試合前に色んなパフォーマンスを披露してファンを喜ばせてきた。
それはやがて『新庄劇場』と呼ばれるようになり、今でも多くの人の記憶に残っている。
試合前にはカエル、ゴレンジャー、ダースベイダー、スパイダーマンなどの被り物をしてシートノックを受けたり、ドームの屋根から吊り下げられて登場したり、奇抜なパフォーマンスでファンを喜ばせた。
時には古巣である甲子園での交流戦で、阪神のユニフォームを着て練習するなど、幅広いファンサービスを行っている。
しかし、この新庄劇場、ただ遊びでやっていたわけではない。ちゃんと新庄なりの考えがあってチームを強くするための戦略だったことをご存知だろうか?
というのも、新庄劇場は必ず、勝てる見込みの強い試合を狙って行われていたからだ。
- 2004年6月23日○3-0ダイエー戦
『カエル』福岡ドーム - 2004年7月25日○8-5オリックス戦
『スパイダーマン』東京ドーム - 2004年9月20日○13-12ダイエー戦
『秘密戦隊ゴレンジャー』札幌ドーム - 2005年5月31日△4-4巨人戦
『新庄フェイス』札幌ドーム - 2005年9月19日●0-3西武戦
『SHINJO5』札幌ドーム - 2006年3月25日○3-1楽天戦
『 ハーレーダビッドソン』札幌ドーム - 2006年6月6日○3-0 阪神戦
『ゴンドラで降臨』札幌ドーム - 2006年9月15日○5-3ロッテ戦
『大脱出イリュージョン』札幌ドーム
「パフォーナンスをして負けたらめちゃくちゃ格好悪い。真面目にやれ、と怒られる。だからこそ相手チームの調子とこちらの調子を考えて、大方で勝てる時にしかやらなかった」とのこと。
そのうえで「そうやって勝ち続けることで、チームや個人に勢いがつく。パフォーマンスをやれば勝つとファンも選手も思い込むようになる」と、戦略的に新庄劇場を行っていたようだ。
伝説⑩ 日ハムを44年ぶりの日本一へ
日本ハムファイターズが北海道に移転したのは、新庄が入団した2004年のことだった。
1年目は3位でプレーオフへと進んだが、2年目は5位。そして3年目のシーズンが開幕して10日ほど経った頃、突然新庄がヒーローインタビューの場で「今シーズン限りでユニフォームを脱ぐ」と宣言。
新庄は日ハムを優勝させるために、わざと背水の陣を敷いて3年目のシーズンに臨んだのだ。もちろん、そこには新庄なりの勝算があってのことだ。
引退を宣言する⇒最後なのでファンが観に来てくれる⇒より期待に応えたい気持ちが高まる⇒経験上、最高のパフォーマンスが出せる。
阪神でプレーした最後の年、野村監督に四番にしてもらったことで最高の成績を残せたことから、新庄はこの3年目で日本一を目指すと決めたのだ。
そして、日ハムは球団最多タイとなる11連勝を成し遂げるなどして、44年ぶりの日本一となった。
新庄剛志ビッグボスの戦略
ということで、今回は現役選手だったころの新庄剛志の名言・伝説の裏に隠された本当の意図について色々と紹介してきた。
2021年に北海道日本ハムファイターズの監督に就任した新庄剛志は、会見で「優勝を目指さない」「1年契約にしている」などの名言を連発していた。
「優勝を目指さない」と言った本意は、ひとつひとつ目の前の試合に集中するということであり、「1年契約にしている」その理由は、自分自身に厳しくやっていくためだとしている。
まったく新庄イズムは健在である。
特にパフォーマンスを使った広報活動は、野球界だけでなく、日本経済においても大きな数字を動かしているとして多くの人の期待と注目を集めている。
これからは新庄剛志ビッグボスとして、新たな名言(迷言)・伝説が生まれることは間違いないので、その時はまたこちらにガシガシと追記していくつもりだ。
2022年は新庄剛志ビッグボスと北海道日本ハムファイターズの活躍に期待大だ!