東京でオリンピックが開催された年の12月。
まだ35歳という若さでこの世を去ってしまった神田沙也加には、母・松田聖子との確執があったと言われている。
神田沙也加がホテルから転落した日も、松田聖子は東京でディナーショーを行っていた。
スタッフの気遣いもあっただろうが、すぐさま松田聖子の元に連絡がいかなかったくらい二人の仲は遠かったことがわかる。
神田沙也加が亡くなった後、松田聖子は寝ずに神田沙也加の遺体に寄り添い続けていたと報道されていたが、それまで二人は7年間も音信不通の絶縁状態だったのだ。
過去には「一卵性」と言われるほどの母娘だったが、絶縁となる原因は『母・松田聖子の恋愛関係』という見方が強い。
そこに一体何があったのだろうか──。
目次
松田聖子と神田沙也加の確執
松田聖子と神田沙也加に確執があるというのは事実だったようだが、そんな二人も過去にはあらゆるステージでの共演を重ねている。
YouTubeにはいくつか動画や音源や上がっていたのでチェックしてみたが、二人の息も合っていて観ながら思わず頬も緩んでくる。
https://youtu.be/GjriDr-tOdU
そんな自然な母娘でもあった二人が最後に共演したのは、2014年のNHK紅白歌合戦だった。
そんな二人も、2011年の紅白歌合戦の頃にはすでに冷え切った関係だったという。
初めて二人が歌で共演したのは、東日本大震災があった2011年の紅白歌合戦。場所は、聖子のカウントダウンコンサートが行われていた会場からの中継で、この時二人は純白のドレスを身にまとい、昭和の名曲『上を向いて歩こう』を歌い上げ、最後には聖子が涙を流すという一幕があった。
文春の取材において、その時のことを事務所関係者が次のように語っている。
「お互いに気を使い、腫れ物を扱うようなギクシャクした関係が続いていました。紅白で聖子さんが泣いたのを見て多くのスタッフが呆れ返っていましたが、沙也加も『ママはウソ泣きしていた』と話していた」
出典:文春オンライン
これをジョークで言ったのかどうかは定かではないが、話の流れからしてこの時から松田聖子と神田沙也加の仲はそれほど良いとは言えなかったのではないだろうか。
一体いつから親子関係に歪みが出たのか…?
それをこれから振り返ってみようと思う。
日本で一番有名な赤ちゃん
1986年10月1日。トップアイドルとして一斉を風靡していた松田聖子、そして石原軍団俳優として人気急上昇中の神田正輝の二人を親に持つ、日本で『一番有名な赤ちゃん』として神田沙也加が生まれる。
帝王切開で、2630グラム。沙也加という名前は画数を考えてつけられたのだそうだ。
昭和を知らない人からすると「プライバシーはどうなってんだ」とお怒りになるかもしれないが、当時は二人の結婚披露宴がテレビ放送され、その時の平均視聴率が約35%だったと言うから、沙也加の誕生がどれだけ国民から注目されていたかが伺えるのではないだろうか。
そんな超有名人の一人娘だったこともあって、神田沙也加の成長は常にマスコミから狙われてたり、好奇の目を向けられてしまう。
そのために沙也加は他の子供たちとは違う人生を送ることとなる…。
たとえば、日常生活をパパラッチから追われたり、幼少期の頃になると松田聖子のサインやコンサートチケットを友達から頼まれたりしないように、子供同士で遊ぶことを禁止されていたり。
その上、両親は仕事が忙しいため、神田正輝の祖母が神田沙也加の面倒を見ているといった状況。
それでも松田聖子は娘の運動会には毎回顔を出していたようだが、そのおかげで学校側が毎回警備を出すことになるので、神田沙也加は徐々に普通の子供とは異なる自分の人生に葛藤を覚え始める。
引用元:週刊女性PRIME
そして神田沙也加が10歳の時、松田聖子と神田正輝が離婚してしまう。
離婚の理由は、母・松田聖子の不倫疑惑だ。
疑惑の相手は、バックダンサーの外国人男性など複数人だったと囁かれていたから、当時の神田沙也加にとってはかなりショッキングなことだったと思う。子供にとっては、父の浮気より母の浮気の方が精神的にキツいと言われているからだ。
それでも疑惑の上での離婚なので、親権は松田聖子が引き受けることとなった。
松田聖子の本名は『蒲池法子(かまちのりこ)』で松田姓は芸名となるため、聖子は娘・沙也加の将来のことを考えて、神田姓のままにした育てることにしたと言われている。
その後、神田沙也加は松田聖子の祖母に育てられることになる。
このことからもわかるように、神田沙也加は一般家庭よりも両親の愛情を受ける幼少期を送れていないと見られている。
松田聖子の恋愛関係がひどすぎた?
トップアイドルとして活躍していた松田聖子は、当時、色々な男性とのスキャンダルが噂されていた。
そのため、松田聖子は『一人の男性じゃ満たされないタイプの女』という見方もされている。
神田正輝と離婚する前も郷ひろみとの交際があり、マッチこと近藤真彦とのニューヨークでの密会などは世間に衝撃を与えた。当時、マッチと中森明菜の交際が噂されていたので、この報道で聖子の略奪愛だとも囁かることとなる。
そしてこの密会報道の後、中森明菜が自殺未遂を図るなどショッキングなこともあった。いまなら自殺報道に関するガイドラインもあるので放送は自粛されるだろうが、当時のニュースは僕も子供ながらにショックだったことを覚えている。
その他、海外のコーディネーターのジェフ・ニコルズ。バックダンサーのアラン・リードなど、複数名との赤裸々な関係がゴシップ誌や暴露本などに書かれていた。
松田聖子は離婚後の翌年、主治医だった歯科医・波多野浩之と再婚を果たすも、その間にシンガーソングライター・原田真二との不倫疑惑が浮上。2年後には離婚をすることとなった。
そんな母・松田聖子にはついていけなかった沙也加は、小学校を卒業してから全寮制の中学へと進学する。
しかし、そこでは陰湿なイジメが待っていたのだ。
「芸能人の娘だからというやっかみもあったのでしょう。下着を盗まれて、みんなの前で『さやかのだよー』とさらし者にされたり、全寮制の中学時代、夜寝ようとしたら布団がびしょびしょになっていたこともあったといいます」(芸能関係者)
出典:文春オンライン
神田沙也加は当時のことを「寮なので逃げ場がなかった。正直つらいことしかなかった」と振り返る。
最終的には、再婚相手だった歯科医と共にアメリカに渡った松田聖子の元へと戻ることになる。この時、沙也加は12歳で米短編映画の撮影で女優デビューを果たす。
しかし、アメリカでの生活ではコミュニケーションを取るのに苦労し、母・松田聖子も仕事で家にいないこともあり地に足つかない日々、継父の歯科医との生活で孤独感を感じることが多かったという。
結局、その歯科医とも離婚し、2012年にはまた別の男性と3度目の結婚を果たす。
いくら有名人の子供として生まれたとはいえ、恋多き母の恋愛事情により多感な時期を振り回されることとなった神田沙也加は、この頃から母・松田聖子との心の距離が離れていってしまったのだと思われる。
親の七光りとしてデビューするも…
神田沙也加がデビューしたのは2002年。名義はSAYAKA。彼女がまだ高校一年の時だ。
芸能界の厳しさを知っている松田聖子としては、当初、娘の芸能界入りを猛反対していたが、最終的には「私が娘を守る」という意志の元、神田沙也加の芸能界デビューを認めている。
ただ、ビッグな二世タレントとして世間の注目を集めるものの、『親の七光り』として見られ、何をするにしても親と比べられてしまう。
評価されても評価されなくても、そこに親の亡霊がつきまとう。
神田沙也加の芸能生活というのは、常にその見えないバッシングとの闘いだったのだ。
現在、再評価を受けているデビュー曲
そんなデビュー直後だったが、神田沙也加に恋人ができる。
その相手は一回り年上のミュージシャンで、しかも家庭持ち。つまり、不倫ということになる。
そこで、そのミュージシャンが離婚を成立させたことで、沙也加は本気で結婚に踏み出そうとするも、母・聖子から猛反対を受けてしまう。その際、自宅では窓ガラスが割れて警察がくるレベルの壮絶な母娘ゲンカとなったそうだ。
そして高校卒業後は芸能活動を休止。
神田沙也加が芸能活動を休止した理由は2つあると言われている。
- 母・松田聖子から恋愛のことで勘当された
- 実力をつけるために自ら勉強期間を作った
その後、沙也加は飲食店でのアルバイトを始め、19歳で普通の人の人生を初めて経験した自分に驚いたという。
ちなみに一回り年上のミュージシャンとは、高校卒業後に別れている。
それから一年半の充電期間を経て、女優・大地真央の後押しで2006年に芸能界に復帰するも、母・松田聖子と同じ歌手としてではなく、演劇や声優として目覚ましい成長を遂げていく。
神田沙也加も恋多き女?
復帰後は、舞台や声優として活躍する神田沙也加だが、芸能界という場では母・聖子と同じように恋多き女となっていく。
時系列で表すと次のような感じだ。
- ギタリスト:一回り上の既婚者
- 俳優:石垣佑磨
- ギタリスト:北野正人
- 俳優:山崎育三郎
- 俳優:田代万里生
- ギタリスト:Billy
- 俳優:アイドル出身の年上A
- 俳優:村田充
- ジャニーズ:秋山大河
- 俳優:前山剛久
ちなみにこのうち8名が共演者となっているので、神田沙也加は陰で『共演者キラー』とも呼ばれていたそうだ。
こういう時「血は争えない」というのかもしれないが、幼少期に母・聖子からの愛情に飢えていた沙也加からすると同族嫌悪する部分も多少あったのだろう。
最初の恋愛を反対された時、母・聖子の言葉と行動が一致しない姿に猛反発したのも頷ける。
その後もよく「ママみたいになりたくない」と愚痴ることがあったという。
ただ、松田聖子からすると、自分の財産を託す一人娘の相手がどんな人物かはしっかり見極めたいという思いがあったのだろう。
松田聖子の資産は10億をくだらないという報道もあったくらいなので、こと結婚に関してはかなり口うるさくなってしまったようだ。
この辺りの感覚は、眞子さまが小室圭と結婚する時の感じに似ているかもしれない。
資産10億となれば…、やはり色々と言いたくなる親の気持ちもわかる。
基本的にどの彼氏も苦い顔をしていた聖子だったが、2011年頃の交際相手・田代万里生だけは家柄も経歴も申し分なく(父親はテノール歌手で、自身も東京芸大卒)、その礼儀正しい人柄から恋愛を認めていたようだ。
しかし、その恋愛も最後は喧嘩が続き、3年ほどで破局となってしまった。
絶縁の原因は母・聖子の恋愛だった
2011年の紅白歌合戦で親子共演を果たしてから、度々共に舞台に出ることもあった二人だが、お互いに水面下では思うところがあったはずだ。
子が親を嫌う強さと、親が子を嫌う強さは似ているようで異なるものだが、これまでの特殊な家族関係でその辺りの理解が埋まっていないのだろう。
2014年、二人が絶縁関係となる出来事が起きてしまう。
それは、家族で切り盛りしていた事務所『ファンティック』を、松田聖子が一方的に飛び出し、元マネージャーと共に新たに個人事務所を設立したこと。
しかもこの元マネージャーが松田聖子の不倫相手と報じられていた人物だったために、この身勝手な行動に対し親族総出で聖子は距離を置かれてしまう。
もちろん、神田沙也加もとうとうそんな母にブチ切れて愛想を尽かしてしまったのだ。
2014年というと神田沙也加がアナ雪でブレイクした年。
心理的に『親の七光り』呪縛から抜け出し始めた頃だったので、沙也加は母・聖子を共演NGにし、テレビでも母の話をNGにし始める。
すると次は聖子から「事務所の名前を使うな」と沙也加にクレームが入り、2017年に沙也加は新たに事務所『ローブ』を設立する。とはいえ事務所の場所などはそのままだったのだが、聖子はその場所を明け渡すようにと容赦なし。結局、転居を余儀なくされた。
沙也加は沙也加で、自身の結婚式に父・神田正輝のみを招待し、母・聖子のお祝いの言葉さえ無視するという徹底ぶり。
ただ、沙也加にとって神田正輝は信頼できる唯一の肉親という意識は強かったと思う。母・聖子の名付けで『SAYAKA』としてデビューするも、結局『神田沙也加』という名前で活動しているところを見ると、父・正輝の存在は大きかったに違いない。
神田正輝が再婚しないのは娘のためという噂もあるが、それは結構本当のことなのかもしれない。
「聖子は何度も電話をかけましたが、沙也加は全て無視。『“おめでとう”と伝えてあげたいのに連絡が取れない』とボヤいていました。」(聖子の知人)
出典:文春オンライン
そんな泥沼の様相を呈する中で決定打となったのが、神田正輝と聖子が離婚した後に生活の面倒を見てくれた祖母・一子が聖子側についたことだ。
生みの親・育ての親の二人と対立することになった神田沙也加は、そこから7年間松田聖子と絶縁し、一切連絡を取らなくなってしまった。
娘・沙也加の変わり果てた姿に号泣
お互い言葉を交わすことのない7年。
そして2021年12月18日、神田沙也加は札幌のホテルから転落し、この世を去ることになってしまった。
転落の直前、沙也加は父・神田正輝には誕生日の祝いの電話を入れ、母・松田聖子とは最後まで絶縁を貫いた。親子関係の不仲を修復させることなく、その生涯を終えることを選んだのだ。
その日の夜、なぜ松田聖子がディナーショーに出演していたのか不思議に思った人は多かったが、長い人生における確執が二人を遠ざけていたということがわかるだろう。
もちろん、文春のスクープ記事でも書いた通りだが、『恋愛トラブル』や『喉の病気』も大きな要因だったと言われている。
特に最後の交際相手・前山剛久(たかひさ)の影響は大きかったと考えられる。
2022年1月20日号の週刊文春には次のように書かれていた。
12月に入り、沙也加に冷たい姿勢を見せ始めた前山。沙也加は涙声で、縋(すが)るように恋人の呼び名を繰り返した。
「だって『好き』って言ったから付いてきたんだよ。ねぇ、たぁ……」
しばし沈黙が続き、再び沙也加はこう訴えた。
「たぁ、ねぇ。『大好きだ』って、『こんなに合う人いない』って言ったから付いてきたんだよ」
しかし、恋人からはただ一言、「知らない」と突き放されるのだった。
出典:文春オンライン
これは文春砲で流出した音声から、今回、新たに出てきたものだ。
二人の交際歴はたったの2ヶ月ほどだが、不遇の恋愛だったこともあり、聖子は娘が前山剛久と交際していることさえ知らなかったようだ。
しかし、その背景にはやはり家族の不安定な関係があったことは間違いない。
最近は『毒親』や『親ガチャ』という言葉もよく目にするようになったが、基本的に親は子供の味方であるものだと思っている。
変わり果てた姿の一人娘と対面した時、松田聖子は人目をはばからずに号泣したと伝えられていた。
無言の愛娘の冷たくなった頬に何度も自分の頬をすり寄せ、覆いかぶさるように両手で何度も撫でながら泣き叫ぶ母親の姿は「筆舌に尽くし難い、これまで見たことのない聖子さんの姿だった」という。
出典:スポニチアネックス
紅白辞退は親として正しい選択でも詳しく書いているが、一旦、出場の意向を示した紅白歌合戦もやはり辞退することとなった。
親子が一旦絶縁すると、そこから月日が経つのは本当に早い。日常が嫌なことを忘れさせてくれるからだ。
「人間、そう罪深いヤツはいない」
昔、矢沢永吉がそう言っていたことを思い出した。
仲睦まじい3人の家族写真を見ると胸が痛くなる。
国民の多くからその人生を見守られてきた神田沙也加の早すぎる最後に、我々はいったい何を思えばいいのだろうか。